
伝道者の声

そして終わりが来る
宮嵜 薫 常勤講師
「終わったー!」という瞬間。これをとても嬉しく感じ、心から喜ぶようになったのは、神学生になった頃からだろうか。この感覚は牧師になってますます強くなったように思う。東神大で学び、特にこのたび修士論文を書き終えた皆さんとなら、この思いを共有できるのではないだろうか。
自分がやり始めたことを終えること、やり遂げること、完成させること。それは他所からの評価がどうであれ喜ばしいことである。だが、とりわけ神学の学びや論文作成、説教その他、主に仕える業に関しては、格別の喜びとして感じられるのはどうしてなのだろう。
その始まりや最中はたいてい重く苦しい。孤独で引きこもりのような作業を強いられる。体に悪い。骨にも来る。ため息を何回もつく。早く外で遊びたい…のをこらえて集中する。締切りまでの時間との戦いだ。観念し、自分の何かを手放してのめりこむ。持てる時間と労力を主に献げる。それを繰り返すうちに、目の前の道が切り拓かれ、言葉が与えられる感覚を得る。誘われて思索を深めるうちに、こつんとくる。小さな何かを発見する。主が助けてくださっているのを知る。そして出口が見えてきて、ついに完成に至る。始まりの時には想定しなかった形で終わりを迎えることも多い。その意外性がまた楽しい。言葉や思考を主が導いておられ、完成まで伴走してくださっていたのだ。それなら無上の喜びでなくて何だろう。・・・かくして、主との協働の結果をとその時々で生み出し、それを繰り返す歩みがわれわれの職務なのである。
私も思い起こす。修論を書き上げ、細心の注意を払い印刷製本をし、教務課に提出して受理されたときのあの解放感。私の場合、教務課を出た2秒後に近藤勝彦学長(当時)にばったりと会い、そのまま学長室に招かれ、赴任先としての推薦教会の名を告げられたのだった。その晩、家族と共に安堵と歓喜の祝杯を上げたのは言うまでもない。修論提出にはそのような実質的側面もある。
しかし皆さんは、ただそんな意味での終わりを迎えたのではない。修論を書くことを通して、以下のようなことが培われたであろう。
- 学問的謙虚さを学ぶ:先人たちとの対話、文献利用の規則を通しての自己相対化。
専門的なことを論じることは、緊張を強いられる営みであるはず。 - 探究心を育む:神学的に思考し、真理を追求することの尽きない知的喜びを知る。
- 言葉を磨く:読む相手、聞き手を意識して、明瞭に表現する文章力、説得力。
ほかにもあるかもしれないが、これらは牧師・説教者になってからもずっと必要なことばかりである。労苦は決して無駄にはならない。また、書き上げた論文のテーゼや内容は、各人の作品(業績)なので、今後自身の名刺代わりのような役割さえ担う。修論作成は、終わってみれば、まさにいいこと尽くめだったのだ。今後、修論で取り組んだテーマをライフワークのようにして追求し続けて、何らかの形にまとめたり、博士論文に挑戦したりする人が出てくることを切に祈り願う。
卒業される神学修士の皆さん、完走おめでとう。失敗も成功もなく、ただやり終えたことがほめたたえられるように(もちろん、主導教授をはじめ教師陣や周囲の人々への感謝も忘れずに)! ともあれ今は、終わりを喜び合おう。まもなく始まりが来るから。
(『セオロギア72号』巻頭言より)
