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伝道者の声

片岡 賢蔵

主は打ち砕かれた心に近くいます

大学院博士課程前期課程2年
片岡 賢蔵

強い日差しが降り注ぐ夏の日、長崎県南島原市の田舎道を歩いていたときのこと。およそ観光客など来ない家並みの間に、ぽつんとセミナリヨ(初等神学校)の跡地があった。ただ四角い形の墓碑が、四体、寝かせてあるだけである。「ああ、かつて、ここに神学校があったのだ。」「そこで学ぶ人々がいた。」そして、いつしか、神学校の門は閉じられたのだと、そのとき「しかし今、東京神学大学の門は開いている。」というビジョンが、ふっと頭に届けられた。爽やかな風のようにして、召命感が私の中に入り込んだ瞬間だ。

しかし、牧師の妻には、なかなか信用されなかった。自分に与えられた召命感について、言葉で説明することができなかったからだ。この頭に取りついたのは、「神様の召し」なのか、「自分の思い」なのか。そこで、自分の立ち位置をクリアにしたのは、教会で自ら経験してきた出来事だ。

青年の頃、安易な気持ちで礼拝に出席し、最前列で張り詰めた姿勢で座る年配の信徒の姿を見、自分の中の何かが崩れたこと。仕事に就き、慣れきった職場で、ふと牧師の説教を思い起こし、力がふつふつと漲ってきたこと。

さらに時が経ち、教会もまた人間の集まりなのだと、どこか冷めた目で見ていた自分が打ち砕かれ、困難のある教会で、苦闘する牧師の中で、神が働く姿を目の当たりにしたこと。

思えば、ものごころついた頃から今に至るまで、教会の中で、自分はいつも打ち砕かれてきた。しかも、安心して、そうなった。神の勝利が伝えられていたからだ。この福音を語り継ぐものとして、教会に仕えよう。神学校を無事、卒業できるかどうか。牧師・伝道者になれるかどうかは、二の次だ。牧師の妻に受け入れられ、教会から送り出されることになった。

入学の際、幼少期から私を知る母教会の牧師から、こんなメールをいただいた。

「私の代は、途中で挫折して、卒業した者は半数以下でした。牧師になってからつまずいた者もいます。みんな召命感の問題であったと思います。私が『召命感をしっかり確認しつつ』と特に強調したことを、どうか頭の片隅においてください。」

ただ「召命感をしっかり」と言うのではない。「私が、特に強調したこと」を忘れないように、と言うのである。牧師からの何よりの励ましだ。幸いにして、神学校は楽しい。授業では、まるで福音書記者たちの息遣いが、パウロの生の声が目前で飛び交うようだ。そして、将来、本当に、この口が、教会に遣わされて福音を宣べ伝えるようになるのだろうか? 自分自身、驚かされるのを楽しみにしている。