2024年度入試情報

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神学校日メッセージ 芳賀力学長

神学校日のメッセージ
東京神学大学 学長 芳賀 力

【前置き】
 まだウイルス感染状況が十分に治まらないので、各地の後援会に出向くことがなかなかできません。そこで神学校日を迎える今、動画配信という形で神学校日のメッセージを送りたいと思います。本学は献金による諸教会の後援活動によって支えられています。私学助成金が年々削られていく傾向にありますので、その比重は近年ますます高まっています。一見すると厳しい現実ですが、しかしこれはかえって恵まれた状況であるかとも思っています。神学校と教会の関係がますます緊密になりますし、神学教育に信徒の皆さんが直接間接に関わってくださる、そういう比類のない大学教育のスタイルだからです。
 しかし今日は、後援会活動についてではなく、これから献身を考えている方々に献身の勧めを呼びかけたいと思います。伝道献身者を呼び起こすこと、それが本学の一番の願いであり、ひいては未来の諸教会にお応えする最大の貢献であり、使命であると信じるからです。


 与えられた一度限りの人生を、私たちは何のために用いたらよいのでしょう。日々の生活に忙しく追われていると、そんなことを考えている暇はないように思えます。でもこの問いは、誰もが一度は立ち止まって、しっかり考えてみなければならない問いです。なぜなら私たちの人生は一度限りのものであり、そしてそれはただ偶然、DNAの生命連鎖の過程で自然淘汰の結果として存在しているのではなく、私たちを造ってくださった方の御手の中にあるからです。だから私たちは、私たちを造ってくださった方の御心に沿って生きる時、自分の存在を最もよく表現し実現することができます。いくらこの世的に成功しても、御心に適わなければ醜いままです。したがって私たちは、ただ自分のためにではなく、自分を造ってくださった方のために生きるという選択肢を、一度は真剣に考えてみる必要があるのです。
 使徒パウロはコリントの信徒へと宛てた第一の手紙4章7節で、「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」と言っています。私たちに与えられた賜物のすべて、いや私たちの生命、命そのもの、そして存在のすべてが、神からいただいた贈り物なのです。もしそのことに気づかないで、「自分の命、自分の人生は当然自分のものだから、好き勝手にし、自分の思い通りに使ってもかまわない。当たり前ではないか」と勘違いしていると、時にそれは、間違った使い方をしてしまい、自分の人生が一つの所有物として、消費の対象になってしまいます。消費してしまえば、何が残るでしょう。何も残りません。残ったとしてもそれは、空しい虚勢であり、すぐに忘れられるかりそめの名声であり、自己満足です。それらはただ人生の老廃物にすぎません。私たちにとって大事なことは、この命、この一度限りの人生を、神からの贈り物として見るという視線です。


 だからここで、自分のためにではなく、自分を造ってくださった方のために生きるという選択肢を一度真剣に考えてみることが必要です。それは、言い換えれば神のために生きるということになりますが、しかしそこにもなかなかむずかしい問題があることも事実です。私たちは勘違いしやすいものです。宗教改革者のマルティン・ルターは、人間にとって生きる道は二つしかない、それは偶像に仕えるか、それとも神に仕えるかだと言いました。神という言葉を使うか使わないかは別にしても、人はひそかに自分が頼みとし、心に掛けているものを必ず持っています。ある人にとってそれは経済的基盤(お金)であり、ある人にとっては社会的なステータス(地位)です。あるいは自分の才能や(人にはないと自負する)能力を誇りとしている場合もあるでしょう。そこでルターはこう言います。今、あなたが心に賭け、信頼を寄せ、いざという時頼みにしているもの、それがあなたにとっての神であると。しかしそれは絶対的に信頼のおける究極的なものではありません。つまりそれらは本当の神ではなく、偶像にすぎないということです。偶像はまやかしの神ですから、それに仕えていると、知らないうちにとんでもないところに引きずられてしまっていることにもなりかねません。
 「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(ローマ六・一六)。


 明治に初めてキリスト教に触れた者たちは、まさに冒頭に掲げた問いの前に立ちました。彼らの多くは、明治維新により没落した武士階級の出身でした。本学のルーツの一つである横浜バンドと呼ばれるグループに属していた者たち、明治学院院長の井深梶之助、東京神学社校長植村正久、青山学院院長になった本多庸一、東北学院院長の押川方義たちは皆そのような人たちです。彼らには薩摩・長州を中心とする藩閥政府の官吏・官僚となる道は閉ざされていました。そこには、これから人生を歩もうとしている若者にとって、大きな失望と挫折があります。しかしその彼らに新しい希望を与えたものは、洋学(英語塾)を通して知ることになったキリスト教です。文明開化の時代に多くの日本国民が選び取った道は、「東洋の道徳、西洋の芸術」というものでした。「芸術」というのは今の技術のことです。つまり、西洋の科学技術は受け入れるが、その根底にあるキリスト教は受け入れず、東洋の精神道徳で行くということです。まわりがそういう風潮を当たり前とする中で、彼らは逆に、キリスト教を通してしか真に人間と社会の変革はありえないという認識に至りました。彼らの前に突然、新しい国家の形成に資する道が開けてきたのです。


 旧約の預言者にイザヤという人物がいます。彼もまた若い頃挫折を経験しました。彼は政治家を目指す前途有望な青年でした。ところが仕えていたウジヤ王が突然亡くなりました。本来なら、有能な王に仕え、天下国家の安泰のために力を尽くす揚々たる明るい未来が開けているはすでした。しかしそれはかな叶わぬことになりました。呆然としていた時、彼は生ける聖なる神に出会います。彼は自分の小ささ、罪深さに恐れおののきます。そして彼は、祭壇から取られた炭火によって汚れた口を清められ、罪が赦されたことを知ります。その時、天からの声を聞きます。「私は誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。それに応じて、咄嗟に彼は言いました。「わたしがここにおります。 わたしを遣わしてください」。こうして彼は預言者として歩み始めました。もちろんその道は安易なものではありませんでした。私たちの場合、神学校に入学してからも、自分の召命の確信が本物であるかどうか、客観的に吟味されることもあります。軌道の変更が求められた時、その時にも私たちは自分の願望にではなく、神の命令に従います。いずれにしてもイザヤは神の呼び出しに応じ、すべてを差し出して従った結果、イスラエルの偉大な預言者の一人となったのです。
 そんな気宇壮大なビジョンなど、今の自分には縁遠いと考える方もいるでしょう。しかしこの気宇壮大なビジョンは神ご自身のものです。私たちはただそのビジョンに参与し、用いられるだけです。どんなに小さな、ささやかな歩みであっても、神の大きなご計画の中に入れられる時、私たちの人生は思ってもみない仕方で大きな意味を担うものとされます。その大きな歴史の一部とされる光栄に与ります。
 今私たちは、いつ終わるとも知れない新型コロナウィルス感染の不安の中に置かれています。私たちの生のすぐ傍らに死が横たわっています。今こそ必要なものは、死に打ち勝つ勝利の信仰を語り継ぐ者たちです。ぜひあなたもこの神のご計画の中に加わり、そこであなたの一度しかない人生を最も有意義に用いていただきたいと思います。ぜひ神学校に来てください。お待ちしています。祈ります。

【祈り】
 主よ、あなたはすべてをご存知です。もしあなたが必要としているのであれば、「わたしがここにおります。 わたしを遣わしてください」。しかしまた、あなたの御旨でないならば、どうかあなたが私たちを、別の仕方で用いられることに、謙遜に身を委ねることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。