2024年度入試情報

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伝道者の声

朴 憲郁 名誉教授

狭き門、広き門!

朴 憲郁 名誉教授

フランスの小説家・評論家アンドレ・ジイド(1869~1951)が書いた小説「狭き門」をもじって、団塊世代の仲間たちは、かつて凌ぎあった受験戦争との関連でその言葉を盛んに用いたものである。彼らは、幼い頃から文字通り「狭き門」をくぐり抜けて進級・進学し、ようやく大学にも入学し、卒業後は猛烈社員となった。かろうじて団塊世代にひっかかる私もまた、同様の経験をしてきたことを忘れられない。大学に関して言えば、入学は狭き門であるが、卒業は広き門である。難関を突破して、ひとたび大学に入学すると、ほとんどの大学生は難なく所定の学業を終えて卒業することができ、その後は社会人となった。しかし今や、高卒後の大学への高進学率と著しい少子化の現象の中で、大学の大衆化は進み、高卒者の大学全入の時代が到来している。しかしそれでも、知識偏重の高学歴社会に取り囲まれた大学への進学は、受験生にとって依然として狭き門である。

こうした状況変化に関して言えば、日本で最も小さい単科大学である東京神学大学(神学科)は、昔も今も変わりはない。すなわち、入学は広き門、卒業は狭き門である。「入学は広き門」というのは、本学の実施する入試が、志願者を落とすためでなく、ひとえに伝道者となることへの信仰的召命と(入学後の勉学に要求される)最小限の基礎学力(語学、文章力等)を試すためのものだからである。しかし、もう一つ変わらない「卒業は狭き門」というのは、「一端入学したら容易に卒業できる」訳ではないからである。すなわち、入学における門戸は広いが、在学中の神学研鑽においては、学問的に相当鍛えられる。従って、精一杯努力しないと、卒業は容易には達成されない。入るに易く、出るに難し、というところであろうか。

しかし諸外国の大学と同様、それは何と理想的な、本来の大学生活の姿ではないか!深い森の自然環境に恵まれ、図書館の(神学・キリスト教学関係の)蔵書と施設においても充実している。学際基礎科目(一般教養科目)、および神学専門科目の授業において、優れた常勤・非常勤の教師がそろい、充実した男子・女子の寮も付設している。それゆえに、日本最小規模の単科大学でありつつ、大学生活の魅力は随一と誇れる本学への入学を、是非皆さんにお勧めしたい。

最後に、もう一つ明かしておきたいことは、真の(信仰的な)意味において、本学への「入学は狭き門」だということである。それは、私立の単科大学として本学が日本基督教団立のプロテスタント・キリスト教の伝道者(聖職者)養成の神学校であるという性質に係わっている。上に述べた大学としての魅力も、実はその一点に集中し、それを目指している。何よりも志願者は、イエス・キリストの福音に捉えられ、そこに自己の全生涯をかけるに値する絶大な価値を見出したゆえに(フィリピ書3:8~9参照)、福音伝道者となる決心をして「献身」し、受験する。人間の救いに係わるこの絶大な価値ゆえの一途な献身は、皆互いに手を携えてできるという訳にはいかず、ただ神の前における一人ひとりの応答的決断に基づく。いや、そのような応答的決断を促す神の側からの召し出しが先にあり、個々人はその御声を聞く。それに加えて、献身者の背後で教会の支えがあり、信仰の友の祈りがある。

こうして、神の召しと教会の支えによって、献身的な入学志願がなされるのであるが、(一般には醜聞と躓きでしかない)イエスの十字架を福音として受け入れることも、さらにはその福音の伝達者になる決心も、すべて「狭き門」であろう。そこでは、イエスがかつて弟子たちに語ったあの言葉が妥当する。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ福音書7:13~14)。その意味において、これは狭き門である。だがそれは、悲壮な覚悟をして出家する僧の姿とはまるで異なる。伝道者への献身は、喜びと希望に満ちている。なぜならば、一匹の迷える羊を見出した羊飼いのあのイエスの譬えのように、献身者は神の愛によって見出された自己の存在と生の目標とを、喜んで神に差し向け、さらに、人々をその同じ神の愛に招き入れる働きに与ろうとするからである。その意味において、本学への入学は「喜ばしき狭き門」なのである。それは、救いに至る門であり、救いに至らせる門である。この門への招きに応え、そこをくぐって入る幸いを得る人は誰であろうか? このエッセーを読んでくださる「あなた」ではないであろうか?

神学大学は、信仰の事柄を神学的、学問的に見極める研鑽の場であるが、それは学問領域に留まらず、自他共に信仰と召命を常に問い、人間の実存的な死と生、失望と希望の問題を根本的に扱う最も深遠な学問的営為の場であろうとする。