
伝道者の声

主と共に歩む喜び
大学院博士課程前期課程2年
廣瀨 祥史
学部四年生と大学院一年生は、夏に夏期伝道実習があります。教会で一ヶ月過ごし、平日の集会や主日礼拝説教の奉仕をするのですが、そこでは、説教をするということの畏れと不安を抱きながらも、主が私自身を用いようとしてくださる恵みの中にあることを、実際に経験していきます。私はまず、説教の聖書箇所を選ぶというところで悩まされました。私は無謀にも、日本基督教団が出版している聖書日課に従って聖書箇所を選んだのでした。
初めの三回の聖書箇所は、パウロが語る勧めの箇所でした。「主の鍛錬を軽んじてはいけない」(ヘブライ12章5節)、「神に倣う者となりなさい」(エフェソ5章1節)、「光の子として歩みなさい」(エフェソ5章8節)といった御言葉が与えられました。私は一生懸命に努力してそのような者へとなるように勧めるような説教になりがちでした。指導してくださる先生からも、自分の努力で救いを得られるような説教になっていると指摘を受けました。それは、私自身が、神学生として仕える自分が、神学生らしく努力して立派な説教をしなくてはならない、という思いに囚われていたからでした。
最後に与えられた聖書箇所は、使徒言行録13章でパウロが異邦人に福音を伝え、異邦人は喜び、ユダヤ人は受け入れないという箇所でした。異邦人たちは、神の民とされていない自分が、ただ神の恵みによって神の民とされている、ということをパウロから聞かされるのでした。私は、その御言葉を通して自分の囚われていた思いが打ち砕かれました。主の御前に立つことのできない罪人であった私は、主の十字架の死と復活によって救われたのだ。そして、主はこのような私をも召して、お用いくださっているのだ。これは、主が与えてくださる恵みであると味わうことができたのです。
私が実習に遣わされる前の不安は「自分」が語ろうと思っていたからであり、そうではなく、主の恵みの中で、主に用いていただこうとお委ねして、「主」が語ろうとする御言葉を説教することであることを、身をもって経験したのです。
自分の全てを捨てて主に従うことのできない私なのですが、その全てを主は知ってくださいます。そして、様々な経験を経て、私自身が固執しようとするものを主が全て打ち砕いてくださいます。主にお仕えして歩むというのは、そのようにして、ただ主の恵みにより、安心して主の御手の内の中を歩む幸いがあります。ですから、ぜひ、自分の中の不安や恐れを全て、主にお委ねし、主の召しに応えませんか?