
- 2026.03.17
- トピックス
2025年度卒業式・告辞
使徒言行録 第14章 8節~18節
この日、大学院前期課程からは12名を、また学部からは5名を、ここから送り出すことが出来ますことを神様に心から感謝いたします。そして、関係する諸教会の皆様、特に、この度、ここから旅立っていく者達を送り出し、支え、励ましてきて下さった諸教会の皆様と喜びを分かち合いたいと思います。
教職として赴任していく者達もあり、信徒として教会に仕えていく者達もあります。しかし、それぞれに、神様に仕え、伝道に力を尽くしていくことに変わりはありません。そのことを踏まえながら、このとき聖書に耳を傾けていきたいのですが、きょう与えられている「使徒言行録」の箇所は、私達の伝道につきまとう、ある問題を描いていると言えるでしょう。それは、教会の教師としてであろうと信徒としてであろうと、無視出来ない問題です。――いや、それは、もしかしたら、「ある問題」と言うよりも、「決定的な問題」と言った方がよいものかもしれません。それは、何が福音を受け入れるのを難しくしているのか、ということです。
与えられている箇所に記されているのは、パウロとバルナバの伝道の一コマです。リストラという町でパウロが「足の不自由な男」を癒したことから、騒動が起こりました。その奇跡に驚かされ、感銘を受けた人々が、バルナバとパウロとを文字通りに「神様扱い」しようとしたのです。そして、二人は、それを何とかやめさせます。
このような騒ぎが起こったのには、ある背景がありました。つまり、リストラに近い、「南フリギア地方」と呼ばれるところには一つの神話が伝わっていたのです。――ある信心深い老夫婦の許を、きょうの箇所に出てくる「ゼウス」と「ヘルメス」という二人の神々が人間の姿で訪ねてきたところ、老夫婦は何も知らないままに二人を手厚くもてなしたので、よく報いられたという話です。
おそらく、この話は広く知られていたのでしょう。ですから、パウロが奇跡を起こしたとき、11節にあるように「群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、『神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった』と言」います。自分達が聞かされていたのと同じことが、いま目の前で起こっていると思い込んだのです。13節に「町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした」とあるのも、もちろん、同じ流れの中で起こったことです。「雄牛」はゼウスへの献げ物とされており、それを花で飾るのも普通のことであったのでした。ここに「人間の姿をとった」ゼウスがいるのだから、ゼウスへの献げ物を献げるのは当然だと考えたわけです。
始めにお話した、「伝道につきまとう問題」が、ここにあります。私達が証しするのは、15節の言葉を借りて言えば、「天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方」、「生ける神」です。天地万物を造られた方ですから、それこそ、この世界の中にあるものに過ぎない「偶像」とは全く別だと言わなければなりません。そういう、真の生ける神様と、その働きが、しかし、この世界の中のものと取り違えられてしまいます。自分達の親しみ、馴染んでいるものと同じだと見做されてしまいます。真の神が、この世の(中の)ものによって、覆い隠されてしまうと言ってもよいでしょう。
さて、二十世紀の代表的な神学者の一人に、パウル・ティリッヒがいました。この人がニューヨークのユニオン神学校で教えていた頃、そこの神学生が、このようなことを言ったという話が伝えられています。――「私は、何となく気持ちが冴えないときには映画に行くが、本当に憂鬱な時にはティリッヒのところに行く」。当時のティリッヒが、その霊的な力、あるいは、牧会の力によって、どれほど尊敬されていたかがわかる話です。
もっとも、今この話を持ち出したのは、むしろ、映画とティリッヒが並べられているというところに興味を惹かれるからです。もちろん、映画よりもティリッヒが勝っているのは、こう語った神学生にとっては(さらには私達には)当たり前のことでしょう。けれども、先程から考えている、あの、伝道の難しさということに帰って言えば、それは、映画よりもティリッヒが、いやむしろ福音が(はるかに)勝っていると伝えるのが難しいということになるのではないでしょうか。映画だけでなく、小説でも音楽でも、そこから得られる慰めと、福音が与える慰めとの違いが伝わらない、わかって貰えない。福音が差し出しているものは、結局、他で得られるものと変わらない。――そう受け止められてしまったなら、わざわざ福音を信じる必要は感じられにくいでしょう。
さらには、このようにも言えるかもしれません。つまり、福音が、この世から与えられる、さまざまな慰めに優るもの、いや、最良のものであると私達が語ったとしても、それでもなお、なかなか受け入れて貰えない・信じて貰えないということが起こっているのではないか、と。
ある人が、近代、そして、現代の人間には、より新しいもの・前よりもよいものが絶えず生み出されることが大切になっているのではないかという指摘をしています。なるほど、どこが違うのかよくわからない新製品が、あらゆる分野で売り出され、しかも、巧みに作られたコマーシャルを通じて、そのことを耳にすると、何となく手に入れたくなってくることがあります。あるいはまた、テレビのヴァラエティー番組の予告では、しょっちゅう「番組史上最高」などという言葉が聞かれます。際限なしに、より新しいもの・よりよいものを求めているのが、今の私達の社会であるのです。
このことを踏まえるならば、せっかく教会に足を運び、福音に関心を持って貰えても、「いつか他の何かによって乗り越えられてしまうものかもしれない」という風にしか受け止めて貰えないということが起こるかもしれません。言い換えれば、飽きられてしまうかもしれないということです。こうして、福音こそが究極的なものであって、それに優る何ものも、この世にはないということが、なかなかわかって貰えない、相手の中に根を下ろせないという事情になります。
聖書に帰りますが、一方で、17節でパウロが語っているように、この天地万物を造られた神は、恵みによって私達の日々の暮らしを支えて下さっている方です。ですから、敢えて言えば、あの映画や小説や音楽その他あれこれの日常的な慰め、この世の与えてくれる慰めというものも、究極的には神様から来ていると言ってよい面があるのかもしれません。けれども、神様から来ているものと神様とが取り違えられて、肝心の神様が見えない、わからないということが起こるのです。そこに伝道の難しさがあるのです。
それでは、この困難は、一体、どのようにして乗り越えられるのでしょうか。――残念ながら、特効薬のようなものがあるわけではありません。しかし、きょうの箇所が最初に伝えていたことに帰るのがよいでしょう。つまり、あの「足の不自由な男」が、「パウロの話すのを聞いていた」ところ、彼の中に信仰が生まれたということです。あの、取り違えを起こした沢山の人々と何の変わりもないはずの一人の男が、それにもかかわらず、福音を正しく受け止め、信仰を与えられたのです。パウロが見てとった通り、それは「いやされるのにふさわしい信仰」でした。その後に起こる癒しよりも、それこそ、この、信仰が引き起こされたことが本当の意味での奇跡であり、神様の業であると言わなければならないのです。
このことを踏まえるならば、あの伝道の困難の克服については、こう言う他はないでしょう。つまり、神様に望みをおきながら、ひたすら福音を語り続けることによってしか、伝道は進展しない、その困難も克服されない、と。これは、誰もが、よく知っている答えでしかありません。けれども、そこに踏み止まること・踏み止まり続けることが大切なのです。福音を、手に取ってもらえても、すぐに飽きられ、捨てられてしまうようなものと同じように飾ってみても、まさに同じように飽きられ、捨てられてしまうだけでしょう。そうではありません。小手先のことにではなく、神様に助けを求めながら、ただただ福音を語っていくのです。そこにしか道は開けないのです。
きょうの箇所に登場するパウロは、その手紙の一つである「コリントの信徒への手紙 一」の中で、「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と語っています(第1章の21節)。神様御自身が選びとられた道、それこそが「宣教という愚かな手段」であったのであり、さらに、その源には、十字架につけられたイエス・キリストという、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(同、23節)があります。このことについて私達は神様よりも賢くあろうとしてはなりません。伝道の工夫も必要ですし、大切です。そのために最善を尽くしていくのです。けれども、伝道の困難という現実を乗り越える決定的なものは、いつでも、福音が語られるところに働く、神様の力であるということを覚えていたいのです。
東京神学大学学長
神代 真砂実
