東京神学大学

Tokyo Union Theological Seminary

東神大ニュース
2020.05.07 ()
トピックスお知らせ

芳賀学長より入学生へのメッセージ

2020年5月7日
学長 芳賀 力
  Ⅰ
 新入生の皆さん、入学おめでとうございます。この言葉を入学式で申し上げたかったのですが、それができなくなりました。世界は今、誰も予測しなかったほど急速に広まった新型コロナウイルス感染の危機に直面しています。かつて人類の歴史はたびたびこうした大惨事に見舞われてきました。黒死病と言われるペストが代表的でしょう。6世紀、中世の十字軍によって広まった11世紀、ボッカチオがその悲惨さを伝える14世紀、『ロビンソン:クルーソー』の作者ダニエル・デフォーの記録が残る17世紀、そしてカミュの『ペスト』の題材となった19世紀と、繰り返し起こったペスト大流行は、人口を激減させました。メメント・モリ(死を覚えよ)というフレーズが修道院での挨拶の言葉になりました。貴族も司教も貧しい農民も、死んでしまえば終わり、骸骨になって踊るという「死の舞踏」が、橋を覆う屋根の軒下などに数多く描かれました。それは確かに誇張された表現でしたが、ふだんはベールに覆われている生の現実が現れ出たものだとも言えるでしょう。
 私たちの生のかたわらに死が横たわっています。伝道者とは、この死の不安におののく世界のただ中で希望の言葉を紡ぎ出すために、世に遣わされる者たちです。ここでの学びはすべてそのことと結びついています。神の言葉について、聖書はそれを特に「命の言葉」と呼んでいますが、この言い回しはこのような時だからこそ、よく味わうべき表現のように思えます。神学とは、死の言葉ではなく、命の言葉を学ぶ学問です。これは、ホームページの在学生へのメッセージに書いたことですが、セネカという人の言葉にラテン語でNon scholae, sed vitae discimusというものがあります。ワレワレハ学校ノタメデハナク、人生ノタメニ学ブという意味です。vita「人生」という言葉は「命」と訳してもよいものです。私たちはここで命のために学ぶのです。そしてそれを、死に脅かされている不安な人々の魂に届けるのです。そのようにして皆さんが届けることになるのは、もう少し厳密に言えば、罪と死を克服し、永遠の命を勝ち取ってくださった方、キリストの命の言葉なのです。それは、世界が聞きたいと願っている「良い知らせ」です。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」(イザヤ書52:7)と書いてあるとおりです。

  Ⅱ
 皆さんはそれを携えて、やがて教会に遣わされます。そして神学校時代の神学の学びは、この教会での奉仕と密接に結びついています。かつて桑田秀延学長は、神学校と教会は車の両輪だと言いましたが、その通りだと思います。しかしこの教会生活について、皆さんの中には今どこか戸惑いを覚えている方も少なくないと思います。現在多くの教会では、礼拝に人が集まることを避け、インターネットでの動画配信によって礼拝が続けられています。このことについてよく訊かれますので、皆さんにも心に留めるべきことを短く申し上げます。
 第一に、新型コロナ感染の問題は、自分のみならず他人の命にかかわる事柄なので、まずは教会も医学的見地に従うべきです。旧約続編シラ書にあるように、医者を造り、用いておられるのは神だからです。
 第二に、集会を中止し、動画配信で礼拝を各自が自宅で守ることは、主権国家のナショナリズムによる信教の自由の侵害とは異なります。どのような手段であれ、礼拝を捧げることが禁じられているわけではありません。
 第三に、この礼拝のあり方は、見えざる教会の持つヴァーチャル・コミュニティ(目には見えないが、現に存在する共同体)としてのつながりを実感させる機会でもあります。私たちは一つにして聖なる公同の使徒的教会の一員なのです。
 ただし第四に、これが「非常時」であることを決して忘れてはなりません。これが当たり前だと思ってはなりませんし、これに慣れてはなりません。礼拝は神の招集に応じることです。神は安息日に、仕事の手を休め、人間が自らの悪しき業を止め、神に礼拝を捧げることを求めておられます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。新約聖書が教会を特徴づける際に用いるのは、「同じ場所に(エピ・ト・アウトー)」集まるという定型句です。同じ場所に集まることなしには、見える教会は存在しません。人々が御言葉を聴くために集まり、パンとぶどう酒を分かち合うところ、そこに見える教会があります。そしてこの見える教会を通して罪の赦しの福音が伝達されます。見える教会なしに見えない教会は存在しません。
 第五に、その意味では、今は「教会のコロナ捕囚」の時です。私はイスラエルのバビロン捕囚のことを念頭に置いています。だから今は耐える時です。やがて必ず捕囚の時は終わります。たとえディアスポラ(離散の民)の状況に置かれようとも、神がご自分の民を見捨てることは決してありません。「主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い、国々の中から集めてくださった。東から西から、北から南から」(詩編107:2-3)。
 だから私たちは、捕囚から解かれた後に味わった、あのエズラ・ネヘミヤの礼拝の喜びが来ることを確信しつつ、それをじっと待ち望むべきなのです。捕囚から解放された総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の書を長々と朗読しました。民は感極まって泣き出しました。その民に彼らは言いました。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」 …… 「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8:9-12)。

  Ⅲ
 先ほどイザヤ書52:7を読みました。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」。美しい一片の詩のように聞こえます。しかしこれは、ただ良い知らせを伝える伝令のことを一般論でのんきに賞賛しているのではありません。これを記した第二イザヤと呼ばれる預言者は、まさにバビロン捕囚という試練に直面しているただ中で、この言葉を記しているのです。すぐその後に「エルサレムの廃墟」という言葉が出てきますが、目の前にしているのは廃墟であり、あたかもゴーストタウンと化した町の様子です。まわりにいるのは、希望の持てない不安におののく日々を送る人々です。そのような人々のただ中に預言者が遣わされ、今は苦難の時ではあるが、苦難の僕を通して救いがもたらされるのだという神の約束、良い知らせ、すなわち福音が伝えられたのです。

  Ⅳ
 状況は私たちもまったく同じです。捕囚の民にとって必要なのは、人間の死の言葉ではなく、神の命の言葉です。たとえ今の新型コロナの緊急事態に解決の目処が立ち、人々の生活が平常に戻る時が来たとしても、もちろん私たちはそれが一日も早く来ることを望むのですが、それでも、人間が罪と死のもとにあるというこの隠された捕囚の状況は変わらないのです。だからこそ、根本的な捕囚からの人間の解放が必要であり、その根本的な罪と死からの解放をもたらした方を宣べ伝える伝道者が必要なのです。皆さんは今その学びのスタートラインに立ちました。オンライン授業で顔を合わせるという変則的な形を取らざるをえませんが、私たちの学校はこの共通の使命で結ばれている一つの召命共同体です。その思いをもってこれからこの学びの道を、一緒に歩んでいきたいと思います。