東京神学大学

Tokyo Union Theological Seminary

東神大ニュース
2020.03.06 ()
トピックス

学位授与式告示

ローマの信徒への手紙15章14~21節
2020年3月6日 学長 芳賀 力

 Ⅰ
 今日は新型コロナ・ウイルス感染拡大防止のために、関係者のみの学位授与式となりました。広い空間で閑散とした中、無観客試合のようになると寂しい思いもするといけませんので、このように集会室で、アットホームな雰囲気の中、教授会メンバー、常務理事の方々、同窓会2名、学生会2名と共に、讃美歌338番「主よ、終わりまで仕えまつらん」をアカペラで歌いながら、心を込めて皆さんを送り出したいと思います。共に御言葉に聴きましょう。
 伝道者パウロほど、波瀾万丈の人生を送った人はいません。彼はキリストを迫害する者からキリストを宣べ伝える者へと人生を180度変えられました。ユダヤ人の中のユダヤ人であったのに、異邦人のための使徒となりました。エルサレムでラビとして成功する道もあったであろうというのに、ほこりまみれになりながら山路を歩き、船に乗っては遭難し、盗賊に遭い、投獄されては鞭打たれ、辱めを受けながらも、それでも見知らぬ町の広場に立って、懸命にキリストを宣べ伝えたのです。「こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」と言う通りです。イリリコン州というのは、ギリシアの北マケドニアから北イタリアにかけての地域のことで、従ってエルサレムからイリリコン州までという言い方は、ほとんど当時のローマ帝国の東半分を指す象徴的な言い方になります。歩き回ったその全歩行距離が大帝国の領土の東半分をほぼ覆い尽くすほどになったのです。

 Ⅱ
 これだけでも、大いに誇ってよい事柄です。これほどに苦労して福音を異邦人の全土に広めたのですから、誰が誇らずにいられるでしょうか。現に今読んでいただいた中に「誇りに思う」という言葉が一カ所出てくるのです。「そこでわたしは、神のために働くことを……誇りに思っています」と、そう彼は17節に記しています。ところがその文章をよく読んで気がつかされることは、パウロが誇りに思っている内容が、一切自分の働きのことではないということです。ここでパウロは自分の手柄話、自慢話をしようというのではありません。そうではなく、その業をしておられるのは、自分を伝道者として召してくださったキリストであり、それ故パウロの伝道活動の全体は、キリストにおける神の業なのだということです。自分はただその業に仕えているにすぎず、神によって用いられている道具にすぎないのです。そしてそのことをパウロは、奇しき恵み Amazing Grace として振り返っているのです。「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。」(ローマ15:17-19)。だから19節の「こうして」という言葉の意味は、神が私を選んで、用いてくださったから、こうして驚くべき活動ができたのですと受け取るべきなのです。

 Ⅲ
 そもそも、「異邦人のための使徒」パウロの存在。それはいったい何を意味しているのでしょう。それは、異邦人を救うためにわざわざ特別の使命を与えて遣わした人間が現にいるのだということです。「異邦人のための使徒」がいるという事実は、神がユダヤ人のみならず異邦人をも救いに入れようとしておられるということを、何よりも雄弁に物語っています。しかも神は、神から遠く離れていた異邦人をご自身のもとへと連れてくるために、このかつて教会を迫害し、神に敵対していた男、それ故神から最も遠く離れていた人物を、わざわざ異邦人のための使徒として選んだのです。
 パウロはそれを痛いほど知っているので、自分のことなど誇りようがないのです。誇りうるとすれば、ただ、このような自分を選び、用いてくださっているキリスト以外にはないのです。パウロは断言します。「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」(15:18)。いったいそう言う以外に、何か別の言い方があるでしょうか。主語はすべてキリストなのです。「キリストは……働かれました」。それが言いたいことのすべてであって、そのキリストの働きが、信じがたいことに、こんな「わたしの言葉と行いを通して」行われたということ、そのことを誇りとしているのです。キリスト教に正面から反対していた人間、キリストに楯突いていた人間が、キリストの福音を宣べ伝える人間にされているのです。その働きの一切は自分の中からはついぞ出るはずもなかった可能性であり、それはまさに神の可能性が自分を通して実現しているということ以外の何ものでもなかったのです。だから使徒は言うのです。「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」。そしてそれは、私たち伝道者すべての者が繰り返し口にすべき言葉です。

 Ⅳ
 「このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました」。まさにパウロの伝道活動は、キリストの名がまだ知られていない所へと向かうものでした。そして伝道とは常に、「キリストの名がまだ知られていない所」に福音、すなわち喜びの知らせをもたらすということになるでしょう。神から遠く離れているすべての人間、ただ自分の中にしか可能性を見いだしていない人間、それ故、その人間的な可能性が底を尽けば、すぐにも絶望するしかない人間に、インマヌエル、「神、我らと共にいます」という喜びの知らせをもたらす。それが福音の伝達です。
 地の果て、キリストの名がまだ知られていない所。それは、あえて言えば、私たちのまわりばかりでなく、同時にまた私たち自身の中にもあるのではないでしょうか。
 私たちは自分では自分をよく知っていると思っています。しかし本当は、神が私たちを知っているほどには、私たちは自分を知ってはいないのです。よく知っていると自分で思っているその奥に、まだ知らない自分がある。そして、まだ知らない自分のところにまで、福音は届いてはいないのです。自分が知っていると思っているその表面的なところで、私たちはキリストについて、そしてキリスト教について、自分なりの先入観を作り上げてしまい、本当の福音の力を味わうことなく終わってしまっているのです。
 皆さんはこれで神学校を卒業します。しかし、もう私は学ぶ必要がなくなったということではありません。レポートを書く必要はなくなったかもしれません。しかし神学そのものを卒業しましたということではありません。正直を言えば、神学校はいつまでもいないで、早々と卒業してほしいのですが、神学は卒業してもらっては困ります。伝道者はいつまでも神学の学徒でなければなりません。
 今ここでパウロは旧約聖書の一節を引き合いに出し、福音が知らされるということは、告げられていなかった人が見、聞かなかった人が悟るということなのだと説明しました。この引用はイザヤ52章の苦難の僕の歌からのものです。「それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ」。多くの人のために身代わりになって裁きを受け、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った人。この歌が預言として残された当時は、いったいこれが誰を指しているのか分かりませんでした。イエス・キリストの十字架の苦難と死の出来事が起こった時、人々ははじめてそれが誰を指しているのか、理解したのです。
 しかし、信仰がなければ、そして伝道者の側に神学がなければ、それは依然として謎にとどまっていると言ってよいでしょう。福音とはそれほどに、誰も物語らなかったことであり、一度も聞かされなかったことなのです。だからこそそれは、人間が作り出したものではなく、神のもたらした福音なのです。この謎を解き明かすためには、神学が必要なのです。十字架の出来事が私のため、あなたのための御子の犠牲の死だということ、そこに罪という人間の問題性を克服する唯一の可能性があるのだということを、神学がなければ、一体誰が正しく解き明かすことができるでしょう。
この不思議な救いの出来事を宣べ伝える者として、今あなた方は全国各地に遣わされて行きます。不安もあるでしょう。しかし恐れる必要はありません。なぜなら、あなた方のしていること、これからしようとしていることは、あなた方自身の業ではなく、神の業であり、あなた方の自己宣伝ではなく、神の福音の宣伝だからです。私たちの答えはただ一つです。
あなたはこの東神大に来て、何を学びましたか。「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」。
 あなたはこの東神大を出てから、何をしようと計画していますか。「キリストがわたしを通して働かれること以外は、あえて何も申しません」。
 あなたが伝道者として生涯を全うした時、あなたは自分の人生を総括して、何と言いますか。「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」。
 皆さんのこれからの歩みの上に、祝福を祈りたいと思います。

 【祈り】
 父・子・聖霊なる三位一体の御神。私たちは今ここに、神学校での学びを終えた卒業生たちを、伝道の最前線に送り出そうとしています。あなたに心閉ざし、しばしば背を向けて歩んでいた私たちです。しばしば迷い、しばしば疑い、時にあなたから離れようとした私たちです。しかしあなたはそのような私たちを、キリストの恵みのうちに捕らえ続け、今日のこの日を迎えさせてくださいました。ただただ感謝です。どうかこれからも試練が訪れた時、あなた以外の場所にではなく、あなたの御翼の陰の中に逃れ行くことができますように。どうか私たちに語らせてください。「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」と。そしてこの言葉の中に、大いなる安らぎが隠されていることを悟らせてください。どうか一筋の心で、主の教会と学校に仕えることができますように。私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。

学位授与式20200306-1

学位授与式20200306-2

卒業生の任地

大学院博士課程前期課程修了者
聖書神学専攻
日髙 貴士耶代田教会 担任教師
敦森 幹生名張教会 主任担任教師
加藤 秀久仙台南伝道所 主任担任教師
久山 嵐中渋谷教会 担任教師
村越 ちはる桜美林教会 担任教師
金 南救我孫子教会 主任担任教師
組織神学専攻
長手 陽介聖ヶ丘教会 担任教師
髙根 祐子蕃山町教会 担任教師
髙橋 優美子磐城教会 主任担任教師
濱田 美惠子熊取教会 主任担任教師
柳澤 宗光信濃町教会 担任教師
山名 高広玉川聖学院中・高聖書科教諭、SCF副主事
山本 美保子金城教会 担任教師
山森 風花坂出教会 主任担任教師
吉川 良御坊はこぶね教会 主任担任教師
金 貞男(単立)藤沢キリスト教会 主任担任教師
金 英実日本基督同盟教団横浜上野町教会 担任教師

前期課程単位修得者
松浦 子基高知教会 担任教師
尾崎 二郎別府不老町教会 主任担任教師

学部卒業者
髙橋 亜希子