主に導かれて
日本基督教教団 畦野教会 牧師
塚本 吉興
「わたしはあなたを母の胎に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ書一章五節)
私にとって教会はいつも楽しいところでした。クリスチャンホームに育った私は、日曜日になると両親と共に教会に行き、一日そこで過ごすこともありました。そんな私が牧師を志すようになったのは、人間的な意味では自然の成り行きであったのかも知れません。しかし、背後には常に神さまの導きがありました。
私が伝道献身者として、神の召しに応えることになった転機は、高校卒業の時に訪れました。一七歳で洗礼を受けた私は、将来は何か神さまに仕える仕事をしたいと思っていましたが、具体的にそれが何かということは分からないままでした。当時、私はアメリカの片田舎にあるクリスチャンの高校に通っていました。他の何人かの日本からの留学生がビジネスの勉強を志す中、私は祈りの中で、「日本にはすでに世界を飛び回る多くのビジネスマンがいる。今、必要なのは伝道者だ。」と示されたように感じました。そこで、シカゴにあるムーディ聖書学院に通うことに決めました。その時の私の夢は、宣教師としてメキシコに行くことでした。しかし、神さまは、私の人生に別のご計画をお持ちだったのです。
大学二年の夏休み、米国からの宣教師が開拓伝道をした教会の礼拝に出席しました。日本語に苦労しながら懸命に説教される姿を見て、「自分は今から日本語を勉強する必要はない。神様が私を導いておられるのは、日本での牧会なのかも知れない。」という思いが与えられました。大学を卒業後、日本で英会話の講師をしながら、Cコースで補教師の準允を受けましたが、日本で伝道するならば、日本で神学をしっかりと学ばなければならないと思わされ、東京神学大学へと導かれました。東神大での神学の学び、志を同じくする友との出会いにはかけがえのないものがあります。献身に至る私の人生の歩みは、最初から神の御手の導きの中にあったのです。
神学生時代に通っていた教会の牧師が青年会でお話くださった時に、「若い皆さんは、人生に一度は、神が伝道者としての召しを与えられているか、真剣に考えてみなさい。」といわれました。召命は、私たちからすれば晴天の霹靂のようであっても、神は大いなるご計画の中に一人ひとりを伝道者として立てるために養っていてくださいます。通ってきた道はそれぞれですが、その歩みを神がすべて導かれるのです。献身を迷っておられる方、あなたの人生を振り返るならば、神の導きの御手が、それこそ生まれる前から常にそこにあったことに気づかされるのではないでしょうか。信仰を持って、献身の一歩を踏み出していただきたいと思います。