「わたしは“必ず”あなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」(出エジプト記三章十二節)
ある年のイースターの日曜日、週報の献金報告に「篠田牧師就任十年感謝」と記されました。それは私の母教会のあるご夫妻がお献げくださったものでした。当時の私は、自分自身を振り返ってみて、何という十年だっただろうか…この私が十年も牧師でいてしまった…そんな思いでした。ところが、それを感謝の献げものをもって本当に喜んでくださる方があったのです。私はとても驚き、同時に深い感動を覚えました。彼らは、私の両親でもなければ親戚でもありません。母教会で数年間、一緒に礼拝を守ったという、ただそれだけです。しかし彼らは、それから十年も私が牧師としてあることを祈り続け、そして感謝をもって振り返ってくださったのです。その献金に添えられていた手紙には、私の歩みを振り返って、「結婚の時、按手の時、就任式の時を思い起こし、感謝の気持ちで一杯です。」と書かれていました。あまりに嬉しく、また畏れ多くて、手紙の前に頭を下げてしまうほど恐縮し、私も感謝の気持ちで一杯になりました。そして、自分が何によって牧師であるか、伝道者として生きているのかということを改めて教えられた思いがしました。
今、その時の感動から、また十年が過ぎようとしています。その間、一度は牧会を離れましたが、再び牧師として二十年を数えようとする今思うことは、牧師ほど祈られている人はいないということです。毎週、礼拝で祈祷会で、また各々に教会の方々が祈っていてくださいます。そして教会の外でも、自分の知らない所でも祈っていてくださる方がおられます。そして何より主なる神さまが、こんな私でも用いようとしてくださるのです。自分の中からではない、外からの力によって立てられていることを深く知らされます。“必ず”と決意してくださった主なる神さまが、今日も色々な方の祈りや様々な支えを通して、こんな私をも牧師として立て、遣わしてくださるのです。時々、「私たちに出来ること」というような言葉で献身への招きがなされますが、私はちょっと違うかな? と思っています。私自身この二十年、出来ることは少なかった、いやむしろ無理だと思うことがほとんどでした。けれども、その不可能を可能に、出来ない私をも召して、支えて、祝福に変えてくださる方が“必ず”おられるのです。だから今日も私は牧師として立っています。大丈夫です! どうぞあなたも勇気を出して、その召しに応える新しい一歩を踏み出してください。主は“必ず”あなたと共におられます。