青年の集い 2008年9月27日(土) 芳賀 力
聖書:使徒言行録22:1−21、マルコによる福音書11:1−6
(1) 前途有為の青年サウロの熱心さは並外れたもので、キリスト者迫害の先頭に立つほどでした。「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒22:4)。追いかけてダマスコにやって来た時、突然天からの強い光に圧倒され、何も見えなくなって地面に倒れ込みます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。その時、自分が迫害しているイエスの呼びかけを聞き、自分のしてきたことの愚かな間違いに気づきました。このサウロからパウロへの転身は180度の回心です。キリストを迫害する者から、今度はキリストの故に迫害されることを喜ぶ人間に変わったのです。その後かなりの猶予期間を経て、異邦人のための福音の伝道者になって行きます。この回り道の期間は、自分に与えられた神からの召命が本物なのかどうかを問う期間となりました。おそらくその間に彼は、迫害されて十字架につけられた方の中に、驚くべき神の救いの業を見るに至ったのでしょう。
(2) これは不思議にも主に用いられた人の話です。神のなさるわざは、こう言ってよければまったくあきれ果てるほどの驚きです。彼には肉体の刺と呼ぶものがありました。どうか取り除いて下さいと祈り続ける彼でしたが、それは取り除かれませんでした。けれどもその弱さの中にいる彼を、神は用いたのです。主がエルサレムに入場される時、二人の弟子は子ろばを連れてくるように仰せつかります。「なぜ、そんなことをするのか」と言われたら、こう答えなさいと主は教えました。「主がお入り用なのです」。これは主が用いたもう者すべてに当てはまることです。パウロが肉体の刺をつらく思っていた時のように、弱さの中にある時、私たちはこの御言葉を語ってくださる主にお会いし、この御言葉によってまた新たに生きる力が与えられます。こんな私をも用いてくださる主に、恩返しをしていこうと、新たな決意が与えられます。
(3) しかし、「こんな私でも」の中には、またもう一つ別の面もあることを私たちは知らねばなりません。「こんな私でも」の「こんな」の意味には、弱さと共にまた強さも含まれているということです。「まだ私にはやることがある。それが私にはできる。だから、福音伝道という仕方で神に直接仕えることは、ほかの人に任せたい」。確かに、福音伝道という仕方で神に直接仕えることだけが、神に仕える道ではありません。キリスト者として社会の中で良い働きをしていくことができます。職業はどんなものでも神からの召命であると宗教改革者たちは言いました。でもひょっとして神はあなたに違うことを期待しているかもしれないのです。それは、福音を伝道し、教会を建てる仕事に就くという道です。「こんな私でも」の「こんな」ということの中には、この意味で、強さの中にある時の自分も含まれているということです。
(4) 神が私たちに期待しておられることは、あなたの一番輝いている時を神に献げなさいということです。森有正は友人と一緒にカトリックの礼拝に出ました。壮麗なガウンを身にまとった司祭の後から若者がお供をして入場してきました。彼の顔は見た目にも際立つほど美しく輝いてます。友人が小声で言いました。「若いのに、司祭にするにはもったいない」。森有正さんはその時、こう答えたということです。「若いからこそ、すばらしいのではないか。もっとも輝いた時を神に献げる。それを彼はしているのだ」と。福音を語り伝えるために身を献げる。しかもそれを一番輝いている時にする。やることがなくなったから、あるいは、仕事がなくなったから、就職ができないから、神学校に来るというのでは、あまりに神さまに申し訳がありません。そうではなく、私はこれがしたいから、だからこそここに来る。そういう気概が大切なのです。
(5) ポーランド人の原作を木下順二氏が脚本化した「巨匠」という話があります。一九四四年ワルシャワでナチスに対する武装蜂起が起こります。俳優志願の青年も仲間と共に林の奥の小学校に逃げ込みました。そこに「巨匠」と呼ばれる老人がいて、俳優としての自分の過去を誇らしげに青年に語ります。ゲシュタポに見つかり、見せしめとして五人の知識人が選ばれて処刑されることになりました。前市長、医師、女校長、ピアニストが次々と引っ張られます。巨匠のところに来て身分証明書を見たゲシュタポは、なんだ簿記係かと言って彼を無視しました。青年は耳を疑います。何だ、ドサ回りの劇団に勤めていた出番のない簿記係だったのか。ところが老人はゲシュタポにかけあいます。見てくれ、ここにマクベスの台本がある。今からマクベスのせりふを朗唱してみせる。そして青二才のゲシュタポの前でマクベスの独白の場面を見事に演じきりました。そこで俳優であることを認め、処刑組へと入れたのです。芽の出ない四十年のドサ回りの日々に一度も俳優として認められなかった老人が、今自分の人生の総決算としてマクベスを演じたのです。死は覚悟の上です。おめおめと生き延びることはもはや問題ではありません。自分が俳優であることを証しする。その証しに命を懸けることの方が彼にとっては決定的に重要だったのです。老人はその時本当に巨匠になりました。その最後の証しを通してです(『使徒的共同体』より)。彼は自分が一番したいこと、自分の誇りにかけてこれがしたいと思うことをしたのです。皆さんも改めて考えていただきたい。自分が一番したいことは何なのかということをです。もちろん、神との関わりぬきで、ただ目先の楽しみだけで、したいことを考えるのではありません。最後に死を迎えるというような段階において、神の前で、神に喜んでいただくために、自分にとって何が一番したいことなのかということです。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマ12:1)。